自分が描く自分像と、他人が見た自分像との解離を考えるの回(過去記事Remix)
今回は2006年11月30日に書かれた過去の記事をリミックスしてみたという話。
元記事では、某氏が、ウィキペディアの本人の項目をみて、本人さんが「事実と違うわい!」といって、内容の大部分を削除したというニュースについて、あーだこーだ語っているのだが…
さて、2012年の年末である。
この数日前にRの法則というテレビ番組を見たわけだ。夕方と夜中に1日2回放送しているEテレの番組なんだけれども、ちょうど私が見た回は、大勢いる出演者のおそらくは高校生ぐらいの人たちに、MCが通知表を渡す回であった。
自分の良い所、悪いところを他者はどうみているのか、そして、その通知表を渡されたときの様子その他のリアクションを、別室で専門家がモニタリングするという企画をやっていた。
見ている限りでは、どこぞの番組の生ぬるさどころではなく、ものすごーくシビアな評価が、各人にもたらされていた。このシビア感こそが私の大好物なのはともかくとして…
出てきた出演者の中で、思っていたことをズバリと他者に見抜かれていたという人もいれば、どうも納得いかないっていう感じの人もいたのであった。うん、その感じがゾクゾクして面白い。
番組を大絶賛するのもこれくらいにしておいて…
2006年のケースといい、2012年のケースといい、興味深いと思った点は、自分が思っている自分と、他の人々の情報から得られた自分とは、大きく異なっている場合もあるという点である。
もっとも、このことは、リアルワールドでもよくある話ではある。
例えば、自分はかっこいい、またはかわいいと思っているナルシストさんも、他者から見れば、ブッサイクなで気持ち悪い人でしかなかったりすることもある。
また、自分では、世間一般の常識を持ったいわゆる常識人だと思っていても、他者から見ると、まるで世間一般の常識に迎合していない相当な変人だと思われていることもある。
私はこういう人間なのになあ。他人はまるでわかってないわあ…って他者から見た自分は違うよねって言いたくなる気持ちは分かる。
でも、自分が思う自分も、集合知から得られる自分も、別の角度から、同じものを見ているだけにすぎないのだから、自分であることには変わりはないというのもまた事実。
なので、自分が思っている自分を否定するのでも、集合知による自分を否定するのでもなく、その解離が生まれている理由を探っていき、その上で、自分を見つめていく方針をとれたら、スマートだよなあと思うのだった。
まあ、私にはそんな芸当できませーん。
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