息の長い人を愛でる視聴観とその弊害 備忘録635回
前回に引き続き、ネタ枯れを引き起こしている状態なので、今回は自分語りをしてしまうのである。「みんながみんな私に興味があると思っちゃいけないよ」と分かっているのに書くのだ。
どうせ、年末だし、他の人間は、どこぞのイベントに参加する他、色々やることが多い訳で、その間に自分語りみたいなことをしても、どっちみち読む人なんていないんだからいいかなということで書いてみるのだ。
と、長々と前置きを書いたところでスタート。念のため、続き部分でたたみます。
ちょっと大人な話から
先日、何の気なしに某サイトの購入履歴を見てみたのだった。いきなり、ちょっと大人な話で恐縮ではあるが、そういうアレである。
で、その履歴におけるジャンルや癖その他諸々を総合してみると、おそらくは軽く引かれる点もあるかもしれない。そのことは一旦棚に上げてみてみると、なんとなく私の視聴者としての視聴観みたいなところで共通点が見えるのだった。
それは、ドラマや芝居が成り立っているものが好きだという点である。内容自体はどんだけしょーもなくてもOKだけど、ある程度、因果関係というか、「こういうことがあったから、こうなった」という流れが成立しているタイプのものが好きなのである。
芝居ができる演者が好きなのよ
そういう流れを組むということは、それなりに演者の能力が試されることになるってことで、結果、好きな演者は?となると、それなりに芝居の素養があるか、その力を感じさせてくれる人となってくるわけですね。
作品の性質上、その演技でお世話になっているか、なっていないかという話に直結しがちなのはさておき、その点においても、いくら見栄えがよくても、セリフがへったくそな人は、ちょっと私、無理ということになる。
結局息の長そうな人が好きなのね
これもまた、ある種の癖といえるのかもしれない。このことは私の視聴観という面において、どうも昔から持っているものだったりする。それは、「息の長くなりそうな人を愛でる」というものである。
ただ見栄えだけで芝居の面がポンコツな人は、いずれいなくなる人であって、そういう人には興味があまり湧かない。でも、そうじゃない人は、実際のところ、後にVパラの深夜帯にやってそうなタイプの作品や映画等に出ているケースも多くなるわけである。
そういう息の長くなりそうな人にものすごく興味が湧くのである。
花の命よりも雑草魂
すこし視野を変えると、このことはグループアイドル等(男女問わず)を見ているときも、そういう視聴観を持っているとも言える。
おそらく、本来あるべきアイドルの見方は、今、現状で動いている姿を愛でるというものになるのだろう。花の命は短いからこそ、そこを見届けましょう的なやつね。
でも、私は、その花そのものには興味が無くて、枯れたあとでもまだまだ伸び続ける木の幹、草の根っこみたいなものを感じさせてくれるものに興味があるのだ。
今、ちやほやされていても、グループから抜けた時点でもうあかんやろうなあと思う人よりは、うわぁ、こいつら今後を見据えて生き延びる準備してるわ、おっそろしいなあと思わせてくれる人の方が、俄然興味が湧くのである。
ヘンテコ視聴観はテレビの影響?
じゃあ、息が長くなりそうな人を愛でるという、ちょっぴりヘンテコかもしれない視聴観を、私が持ってしまっているのは、何が原因なのだろう。
色々考えてみたけれど、これは、長年、テレビをただただ見続けてしまったという、しょーもない人生の蓄積によるものなのではないだろうか。
生き残る人・消える人の流れが激しいテレビ
テレビは世相を映す鏡的な扱いをされていた。今後もそうなのかどうかは、もはやわからないのはさておき、そんなテレビの中では、長年生き延びる人、しばらくしてそこから消滅する人、様々な人が登場してきた。
しかしながら、申し訳ないけれど、その登場している人が、生き残りに対して、どう頑張っているかなんてことは、その演者に肩入れしている人以外の視聴者からすれば知ったこっちゃない。
ただ、残る人、消える人が、一定時間ごとに選別されていくだけであって、むろん、消えた人については、視聴者にとっても、ただ忘却の彼方にいる存在となるだけである。
長く生き残る人は凄い説の固定化
でもね、ただの視聴者からしても、長年テレビを見てしまっている腐れ人生を過ごしていると、いくら知ったこっちゃねえよとはいえ、ここまで出入りの多い(と思われる)世界で、長く生き残っている人については、なんとなくの凄さみたいなものは感じざるをえないのだ。
このことから、しょーもないテレビを見続ける人生を歩み続けてきた私の中で、ある考えが熟成されていったのではないだろうか。
「長く生き残っている人は、得体の知れない何かを持っていて凄いのかもしれない説」である。それが絶対的なスター性なのか、芸の技能なのかは、知ったこっちゃない。とにかく何か得体の知れない凄さなのだ。
それが転じていって、「長く生き残れる素養を持っていると感じさせてくれる人は、なんか凄いのかもしれない」ということになっていったのではないだろうか。
さらに、その結果として、「息の長そうな気配のする人を愛でる視聴観」を持ってしまっているのかもしれない。
ヘンテコな視聴観の弊害
このヘンテコな視聴観の弊害なのかどうかはわからないけれど、どうも、ここ最近(といってももはや十年以上の期間)、素直にテレビ番組を見られなくなってしまったのだ。
どの番組を見るにせよ、単なる視聴者の立場であるなら、面白いことを言ったりした人のことを素直に笑えばいいところを、一旦、笑ってみたとしても、例えば、これでこの人は、もう少し賞味期限が延びたよねとか、メタに片足を突っ込んだ見方に偏りがちになってしまうのである。
こんな見方に立脚しちゃうと、ただボーっとテレビを見てニヤニヤするという行動が取れない。素直に面白いわと思える瞬間も少なくなるわなという話である。
一億総メタ化防止のために
そんなこんなで、メタに片足つっこむと、精神衛生上、ちょっとよくないのかもしれない。じゃあ、メタ化しないためにはどうすりゃいいのかとなってくると、見方がメタ化しちゃうまで、そのものを見てはいけないということになる。
私は、もう既に見すぎてしまっているので、多分、メタ化の見方からは戻れないのだろうけれども、まだ、そこまで進んでいない人は、いいものを素直にいいと言えることを誇りとして、これからを歩んでください。まだ間に合います。
たまに見て、あの番組は面白かったよねっていう。それでいいじゃない。
たまに見て、今のあの人、かわいかった、かっこよかったっていう。それでいいじゃない。
たまに見て、見栄えのいいあの人にお世話になりましたっていう。それでいいじゃない。
1年前の記事(2012年12月28日)
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